「ねこの人生」Blogについて

これは

ねこが「文通屋」を営むことにした経緯

であり、


ねこのこころの傷を含めた「教訓」

ねこの人生そのものを

なんとか「ことば」に変換してみようとする

「試み」だ。

 

だから、

わかってもらおうと思わない。

ひとにわかってもらえるなんて思わない。

そんなの無理だ。

たとえそれが妄想であっても、

他人は他人の常識で生きてる。

 

だけど、文通相手に

私の事情をわかってもらう努力を

一切しないことは、

大変に失礼なことだとおもうから、

綴る努力をすることにした。

ただ、それだけのこと。

ほかのひとに、自分の経験を

「ほんの少しだけ」話したことがある。


だけど、すぐに

「私がそんなんだったら、死んだほうがマシだ!」(何を想像したんだろう。。。)

とか


「そんなストーリーなんかはいらない」(作り話って決めつけてる?)

とか


「君の人生はドラマチックなんだね」(誰の人生にもドラマはあるじゃん。自分次第でしょ?)

とか


「一体どうしてそんな目に」(知るかよ)

とか


「かわいそう」(いやいや)

とか


「なんてラッキー」「なんて贅沢」(良心的な人が居たんですよ。)

なんて言われてしまう。


今どきの人ってモンは、
自分の想像を超えた何かを見聞きすると
自分なりのレッテルを相手に貼り付けて
自分の賢さをアピールするのが常であり、
また、
自分の無知について思考を閉ざすこと、
自分の見聞きしたことのないものに興味関心を示し、他人の経験に学ぶことよりも、
自分の生存的可能性を閉ざすことがお好みらしいのだと気付かされる。

 

私は別にかわいそうなんかじゃない。

世の中、大変な人はたくさんいる。

たいへんの内容も人それぞれだ。


事実は小説よりも奇なり


自分では解決する気がないために、

誰かを利用するために、

大変だと騒ぐ人までいる。

おっと!

それは生きる知恵としての常だろう?と言い出す人までいるんだった。


おー、危ない!どす黒い人間の腹。


それから、

贅沢、ラッキーって言われても、

私は

「目の前の人と」「わずかでも」

【同じ時を過ごす瞬間】を「楽しいと感じてもらいたいな」

自分なりに努力をしてきただけだ。


自分の抱えた困難は
すべて自らが未熟であり、
世間知らずであったからと諦め、
その代わりに他に過剰な負担を強いないよう、細心の注意を払い、苦境に耐え、
できる限り様々なことに寛容であろうと努力し続けただけだ。

ひとに期待を有することは、
他人にとっては重荷だ。

ひとは自分の生命の保証すらできない。
そしてまた、
誰かと感覚や思考を同じくして生きることは不可能だ。
同じと思いこむことは出来ても、
それ以上はない。
私は自分自身と目の前の人との生命の価値について、できるだけ不均衡がないようにと願い出るように、また、自分自身が相手の重荷とならないように努力しただけだ。

様々な期待との調整には手間取ったが、
時を経て私は今のところ、
心穏やかで居られる状況を得た。
 

それはラッキーなのか?

自己努力の結果なのか?

 

私には甚だ疑問が残る。





私の経験談に対する他の人の反応から学んだことがある。

「今の時代の人は、他人の存在や人生に無関心だ。」

私の人生経験のほんの一端を聞きかじるか、かじらないかで、

「君は〇〇だ!」と吐き捨てる。

 

うん。それ、わたしの場合、きみの見立ては外れてると思う。

と内心いつも思うけど、

わたしはいつもそれを口にしない。

悔しくもない。

ただ、とても可哀想な人だなぁと思う。
 

「ひとにレッテルを貼る人」は、

目の前の人が何を考えているのか、

手の内がわかるまでむっつりとしていたり、

相手を電子辞書か、

便利なお手伝いロボットかのように思っている人は、

初対面にも関わらず、

「自分はマクロビオティックの講師でビーガンなのにガンになってしまったの」と告白して泣いてきたり、

「免疫疾患を抱えているんです」と訴えてきたり、

「同級生に犯されました」とか、

「ちんこが小さいと言われて悩んでます」とか、

「年収1億だ」「数億円だ」とか、

「運命の人にはどうやったら会えるんですか?」とか、

ペラペラペラペラ

泣いたり笑ったり。

とてもうるさくて叶わない。

 

自分以外の「他人の判断や考え」に左右されて、

ドタバタドタバタ

 

誰かのためにと必死に動き回っているけれど、

何もかもを蹴散らし、

何もかも忘れていく。

 

まるで生きてる戦車だ。


それでいて、数ヶ月経つと、

じぶんが数ヶ月前に何を心配し、

何をやっていたのか、

覚えてなかったりする。

 

これを、人の噂は75日とかって、

昔の人は言ったんだってさ。


こういう人と関わると、

いくら「ありがとう」って口で言われたり、

涙流して喜ばれても、

わたしはちっとも嬉しくない。

 

だって、経験上、たぶん、まちがいなく、

数週間後にはわたしはこの人の記憶にないから。


わたしがなんのためにそこにきたのかとか、

わたしが何を求めてそこにいるのかとか、

全く聞く耳なんか持たずに、

わたしに自分たちの事情や欲望や不安を吐露し、

まるでわたしがそこにいるようでいないオバケであるかのように扱う。

 

これ、わたしに対して、とっても失礼よね?

でも、本人たちは気づいてないの。

 

それでいながら、

わたしから、なにか自分の希望に見合う回答が得られると、

何を思ったのか、今度は「神さま!」とか、

「今までこんな事話せるなんて思ってなかった!ありがとう!!」とかなんとか叫ぶ。

 

みんな、じぶんのことばかり。

じぶんが、だれかのやくにたちたいとか、

じぶんが、なにがしたいかとか、

じぶんが、なにができたとか

じぶんが、どうなりたいかとか

じぶん、じぶん、じぶん、じぶん。。。。

 

なにかをすること、よりも、

むだなことをしないこと、
ひつようなことだけすること


その優しさや

尊さを知らないのかしら。

 

だれかのために問題解決したいみたいだけど、

それ、

お相手の人は望んでいるのかしらね。

 

余計なお世話だったり、しない?

 

そう。

現代人は

「その瞬間、自分が大事だと思うもの」に振り回されてて、

目の前の人を見てるようでみていないようにみえる。

 

ねこには幽霊が追っかけっこしてるみたいに見えるよ。

 

こんなかんじで、

「現代のひと」ってやつは、

わたしと一言もまともな会話なんて、

心を通わせるやりとりなんて、

一切してないのに、

また勝手にわたしにレッテルを貼って、

怒ったり、ばかにしたり、

浮かれたり、落ち込んだりすることが多いなって思う。

 

キミはボクの何をミテいるの?ダ。

 

わたしは誰の人生にもいない。

これが、いまのわたし。

 

ものしりオバケ。

野良ねこ。

 

わたしは「ことばの持つ暴力性」

「我欲の持つ残忍性」

それから、

「思い込みによる不幸」

それと、

子供の頃から、相手に必要とされれば、

語ることができた「いのちの神秘」について

自分の人生経験をネタ?に

ひとに伝えられないかなぁって思ったりしてるよ。

 

うん。


野良ねこ

ねこの人生 EP of the NekoNora